旧松山街道

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仁淀川町横畑

この道は土佐と伊予とを結ぶ重要な往還で、道幅が一間(1.8メートル)と言う基準があり、当時としては結構広い。伊予では、松山から土佐界までの道を土佐街道と呼び、土佐では高知城下から伊予界までを松山街道と言う。薬師堂は、街道沿いの重要な宿場であり、明治のころは店屋や宿屋が七軒も並んでいたという。藩政時代の土佐・伊予間の通行にはこの街道が主に利用されており、両国の物資交易や文化のほか百姓一揆や脱藩の志士たちが命がけで駆け抜けた道でもある。1852年にはアメリカから十一人の役人と共に帰国したジョン万次郎、1859年には長崎へ行くために岩崎弥太郎や坂本龍馬の右腕と言われる長岡謙吾など、歴史上の著名人もこの街道を使用している。1864年8月14日には田中光顕・大橋慎三・山中安敬・井原応輔・片岡利和の五人の志士が、堂岡の仁井田五所神社で勤王の大願成就の祈願をし、黒森越えで脱藩している。その途中で腹痛を起こした井原は、薬師堂の店屋「与市」で馬を借り、黒森まで与市も同行したという。1868年には土佐藩の兵1610人が松山征討に行く時は地元の人たちも街道の広場に集まって見送り、1882年に薬師堂の大山祇神社で行われた自由民権集会など世直しの人達も使用している。(看板引用)

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