新之丞の碑
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吾川郡いの町
仏ヶ峠には、次のような伝説がある。慶長初年(1596年)の頃、成山村の小道で、突然の病に苦しむ伊予国日向村の新之丞という旅人がいた。哀れに思った養甫尼と安芸三郎左衛門家友が介抱し全快した後、3人は協力して和紙の色紙を漉いた。数年を過ぎて新之丞は帰国することになり、別れのあいさつを交わし、この坂の峠に来ると見送りに来ていた安芸三郎左衛門家友が背後から斬殺した、というものである。それは、紙漉きの技術が他の土地にもれることを防ぎ、村民の利益を守ろうとする戦国時代の背景があった。このときの色紙が、土佐七色紙の起源といわれている。後の慶長六年(1601年)、安芸三郎左衛門家友が土佐国主・山内一豊にお目通りを許された時、持参した色紙が悦ばれ、徳川将軍の献上紙になった。その後、土佐藩は成山村、伊野村に二十四戸の御用紙漉き家を指定し、色紙の秘密を守った。安芸家は十石給地を受け、製紙の役職を明治維新まで勤めている。
大正八年(1919年土佐和紙生産の功を賞して、従五位の追贈を受け墓碑は横藪にある。